川原俊夫(ふくや明太子創業者)の妻や長男は?名言についても

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こんばんは!
くぼたやです。

明日のアンビリバボーではふくや明太子の創業者である川原俊夫さんが特集されます。
いまや福岡の名物の一つであるか辛子明太子、その裏には…川原俊夫さんの活躍がありました。
名言の数々にも注目ですね。

今回は川原俊夫さんについて調べてみました。

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川原俊夫さんと妻の千鶴子さんについて

 

川原 俊夫(かわはら としお)

1913年1月25日-1980年7月17日
ふくやの創業者で、いわゆる博多式の辛子明太子を開発し、広めた人物として知られます。

 

1913年(大正2年)に川原宇次郎さん(正確には「次郎」)とトヨさんの二男として釜山市の寶水町で誕生しました。
川原さんは街中の草梁市場によく通っていて、そこで売られていた明太子に興味を持ちました。
川原家は後に「富久屋」(ふくや)という食料品店も経営していて、この店の名前がのちの「ふくや」に繋がります。

1936年(昭和11年)には千鶴子さんと結婚します。田中家は「釜山物産組」という海運会社を営んでいて、同じ福岡県の糸島郡出身であったことから両家は仲良しでした。千鶴子さんは100メートル走で朝鮮全土の女子最速記録(12.8秒)を樹立、アムステルダムオリンピックメダリストの人見絹枝さんから日本体育大学への推薦を打診されたこともありました。

人生は何が起こるか分かりません…!
千鶴子さんのエピソードに驚きました( ゚Д゚)
結婚するまでは陸上一筋でした。

 

1950年、福岡県・中洲市場で夫婦で食料品店を営んでいました。今とは違い、当時のふくやは主に店舗向けに食料品を売る卸商店でした。

「ふくや」の目玉になるオリジナル商品を開発するため、本場韓国のメンタイを作ることにこだわっていました。
日韓併合時代の韓国で生まれ育った夫婦にとって、メンタイは思い出の味であり、妻の千鶴子さんはもう一度メンタイを食べたいと常々口にしていました。
俊夫さんは妻のためにも記憶を頼りにメンタイを作っては店に並べましたがお客さんの評判は悪かったのです。

それでも俊夫さんは改良を重ね、ついに10年の月日が流れた頃思い通りの味が完成しました。
1957年(昭和32年)に「味の明太子」が発売されました。

最初は店頭に並べても全くといっていいほど売れなかった明太子でしたが、辛子明太子は近所の人々に少しずつ広がり始め、小料理屋で出されるようになるとサラリーマンなどを通じて県外にも評判が広まっていきました!

 

開発までに10年以上かかっていることからもかなり苦労したことが分かりますよね。
諦めなかったからこそ、今の明太子があるのですね・・・!
夫婦で二人三脚で頑張ってきたからこそ、美味しさもひとしお。

 

千鶴子さんは食べることを担当していて、俊夫さんは材料の仕入れを吟味し、ていねいに作っていました。
もう少し辛くとか、塩を薄くとか、千鶴子さんが納得する味つけをしていました。
現在は研究室の人達が慎重に吟味していますが、毎日製品が届けられるので、千鶴子さんが味わって注文をつけたりしています。

今も変わらない味、ということですね(*´▽`*)

ポイントは一般家庭のお惣菜にぴったりの味かどうか
家庭を持ち、子供を育ててきた主婦の舌で吟味しています。
研究室でも長期予報や好みの変化をきちんと調べてすこしずつ味加減を調節していますね。

千鶴子さんの舌で吟味してきた味が今の明太子に繋がっていて、変わらず味わえるって嬉しいですよね!
夫婦どちらかが諦めていたら確実に成り立つことはなかったでしょうね。

 

 

長男について

 

長男は「ふくや」相談役、川原健(たけし)さんです。

健さんは、1943年に新京(旧満州国)で生まれ、1947年、4歳の時に日本へ戻りました。
小中高と博多で育ち、小さい頃から配達やお店の手伝いをしていました。
当時の中洲市場は引き上げが多かったため、そうしないと回らなかったそうです。

両親を支えてきた存在であったことが分かりますね。

 

博多で育ち、5歳の時から「博多祇園山笠」に参加してきました。
健さんは「山のぼせ」といわれる「山笠に心酔する男」です。
ふくやと博多祇園山笠は縁が深い。山笠の「中洲流(ながれ)」は、 1949年に生まれた歴史の若い流です。ふくやの創業者の川原俊夫さんは、この中洲流の立ち上げに尽力した中洲の住人のひとりです。

「男性社員は全員山笠に出るような会社にしたい」と健さんはいいます。

健さんから見たお父さんは、ただのお人好しでした。

 

「一度は東京に出てみたかった」と慶応義塾大学に進学。
卒業後、福岡に戻り福岡相互銀行(旧福岡シティ銀行)に入行。19年間で支店長を2回、部長を経て「これなら店をやれる」と自信と決心がつきました。

「地元への恩返しがしたい。福岡に根付いて親孝行がしたかった。」1984年1月、専務として「ふくや」に戻り、1994年には社長に就任。
その間工場の設立やコールセンターを立ち上げ、東京2店舗を含む約30店舗を拡大、現社長でもある弟の正孝さんとともに、その名を全国に知らしめました。
1997年に会長に就任後は経済会を中心に手腕を発揮。2000年~2008年5月まで在福岡ノルウェー王国名誉領事を務める傍ら、経営塾などで地元の後継者を育ててきました。

社長の正孝さんと「2人足しても親父にはまだたどり着かんな」と話したこともあるといいます。


→明太子をつくった男 ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営 [ 川原健 ]をチェックする!
すごく尊敬できるお父さんであることは間違いないですよね。
健さんはお父さんの俊夫さんについての本も出版しています。
家族愛の深さが伝わりますね。

自分の父親が尊敬できる存在であり、周りからの信頼も厚かったことは誇らしいことですよね。
健さんだからこそ、俊夫さんが築き上げた会社を担えたのでしょう。

 

 

名言について

 

俊夫さんの名言について調べてみました。エピソードと名言を紹介します。

自分の贅沢には関心がありませんでした。
近所で火事が起こると真っ先に駆けつけ、被害にあった人を家に泊めてあげるなど困った人がいると放っておけませんでした。
口癖は「見返りを求めてはいけない。そして人からしてもらったことは絶対に忘れてはいけない」

 

「運がいい人は、人のために生きている人だ。
人のために生きている人と付き合い、運もついてきた。」

 

「受けた恩は石に刻め、施した恩は水に流せ。」

 

「明太子は普段のおかずだから 高く売ってはいけない。」

 

川原さんの最大の功績は博多式の辛子明太子を開発し、明太子産業を博多に根付かせた事であるといえます。
明太子そのものはもともと朝鮮の食品ではありますが、調味液に漬け込む形式の新たな辛子明太子を開発し、博多の名産品として普及させたのは川原さんの功績であります。
また、川原さんは望む人には誰にでも製法を教えたこともあり、多くの明太子業者が生まれ、博多で明太子産業が発展することとなりました。

製法を教えていたことからも、その人柄が伝わりますね。
「明太子はお惣菜である」として明太子の製法に関して特許などは取得しませんでした。
調味料の配合と粉唐辛子の製法だけは企業秘密として、一部の社員以外には伝えませんでした。
開発したのが川原さんじゃなければ、もしかすると明太子はこんなに広まっていなかったかもしれませんよね。

 

 

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まとめ

・明太子ふくや創業者は川原俊夫さん。妻の千鶴子さんとともに辛子明太子を開発した。

・長男の健さんは現在、ふくやの相談役。

・川原俊夫さんの名言やエピソードが多くある

 

今や福岡の名物となっていて、全国的に辛子明太子を目にします。

開発に至るまでの努力があったことを知ると、より一層感謝の気持ちが芽生えますね。

俊夫さんの名言やエピソードから、学ぶことが多いです。
改めて、明太子を食べる時には思い出したいです。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました!

 


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